Poo-tee-weet?(プーティーウィッ?)

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盗まれた時間とは ーミヒャエル・エンデの『モモ』を読んだ

児童書なんて読むつもりなかったのだが、毎朝聴いているJwaveで誰かがミュージカルかなにかでミヒャエル・エンデの『モモ』を題材としたのをやると聞いて、ミュージカルが見たくなったというよりは原作の方を読みたくなった。

とりあえずAmazonでポチッとしておいたのだけどしばらく積ん読状態になっていたので、タイ旅行もあったので飛行機で読んだ。

あらすじはWikipediaのほうに任せるとして、いくつか気になったところと雑感を書いておこうと思う。




時間とは有限だが形のないもの


時間というものの重さ・軽さというのはしていることによって異なるし、それについて気づかずに過ごしてしまっている人も多いのではないか。これが日々の生活がラットレースになってしまう一つの原因だとも思う。有限な時間の中でその重みを決めるのは自分以外に誰ができるのか、と気付かされた。

  とてもとてもふしぎな、それでいてきわめて日常的なひとつの秘密があります。すべての人間はそれにかかわりあい、それをよく知っていますが、そのことを考えてみる人はほとんどいません。たいていの人はその分けまえをもらうだけもらって、それをいっこうにふしぎとも思わないのです。この秘密とはーそれは時間です。
  時間をはかるにはカレンダーや時計がありますが、はかってみたところであまり意味はありません。というのは、だれでも知っているとおり、その時間にどんなことがあったかによってわずか一時間でも永遠の長さに感じられることもあれば、ほんの一瞬と思えることもあるからです。
  なぜなら時間とは、生きるということ、そのものだからです。そして人のいのちは心を住みかとしているからです。
ーp83 『6章インチキで人をまるめこむ計算』

大人のくだらない会話?


急ごうとすると全く進めなくなるという空間にいることを理解できずに、灰色の男たちはモモを見失ってしまう。大人の世界と子供の世界との対比にも見えるが、この会話をこの年齢で読むと耳が痛い。誰の目を気にして仕事をしているのか、いつも上の目を気にしてばかりいると自分自身を縛り付けていることにしかなっていないということに早く気づくべきなのか。

  「だめだ!」ひとりが言いました。「おしまいだ!もうつかまえられっこない。」
  「わからんな。」べつの男が言いました。「どうしてまえにすすめないのかな。」
  「わたしもわからん。」さいしょの男がこたえました。「ただ問題は、われわれが失敗したのはそのせいだってことを斟酌してもらえるかどうかだ。」
  「裁判にかけられるってことか?」
  「まあな、ほめられるってことは、まずありえないな。」
  灰色の男たちはみんなうなだれて、車のボンネットやバンパーに腰をおろしました。いまとなっては、いそぐことはもうありません。 
ーp193-194 『10章 はげしい追跡と、のんびりした逃亡』


現代のお金に対する否定


ネット上で色々と読んでみると、どうもミヒャエル・エンデは『モモ』の中で時間を題材にしているが、実はこれはお金のことを隠喩していたらしい。確かにお金も時間のように、有限なはず(あるパイの一部を自分がもっていて、他の部分を他人が持っている)だが、なぜか増えて行くように考えられている。なんともふしぎなな現象がおきている。それはもしかしたら灰色の男に人間が惑わされているという表れなのかもしれない。

アダムスミスも同様に旧来の(産業革命前の)資本家というのは土地に根ざしており、それが経済を支えるものであったが、土地を背景にせずともし本を増やすことができることに対しての懸念をあらわしていた。この点では現代経済に対する警鐘を鳴らすという点で似ていることを言っているのだろう。(※『アダム・スミスの誤算』)

この本を読んで、自分の信じるものとは何か、もう一度見直してないといけないな、と思いました。

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